8月10日
日本人と結婚した彼は、3年前日本で暮らす事になる。
全く言葉がわからない中、市場で日本語を覚えたらしいが、本当に上手だった。
野菜の箱を担ぎながら、『胡瓜』『茄子』『醤油』など覚えたそうです。
トルコはサンタクロースの発祥の地として知られ、セントニコラスさんが財産を配り歩き、
周りの人々を幸せにし、自分も幸せになったところからきているらしい。
トルコの旗の色は血の色。
多くの血で守られたからだそうです。
終わった後も帰る人が少なく、国際交流を楽しんでいました。
最後にトルコ人なら、小学校で習うと言う『日本』の話。
—エルトゥールル号の遭難の話—
明治二十三年九月十六日の夜、和歌山県大島にある樫野崎灯台での出来事だった。
この時、台風が大島を襲った。
一隻の木造軍艦が、断崖にぶつかり大爆発を起こした。
組員は海に放り出され、波にさらわれた。一人の組員は真っ暗な中で、灯台の光を見た。
彼は四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いた。灯台守はこの人を見て驚いた。
服がもぎ取られ、顔から血が流れ全身は傷だらけだった。
灯台守は、この人が海で遭難したことがすぐわかった。
言葉が通じなかったが、「万国信号音」を見せて、
この人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。
また、身振りで多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。
灯台にいちばん近い樫野の村では、船が遭難したとの知らせを
聞いた男たちが総出で岩場の海岸に下りた。
だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。
村の男たちは冷たくなった乗組員を抱き起こし、自らの体温で彼らを温めはじめた。
次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は六百人余り。
そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。
樫野は貧しい村落であったが村人たちは、この外国人達をどんなことをしても助けてあげたかった。
だが六十九名ものトルコ人を保護し、ついには食料が尽きた。
そして最後には非常用に飼っていたにわとりを料理して食べさせた。
こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。
また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。
この遭難事故は和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。
明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。
さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。
その後も日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。
次のような後日物語がある。
イラン・イラク戦争の最中、一九八五年三月一七日の出来事である。
イラクのサダム・フセインが、
「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」
と、世界に向けて発信した。
日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。
日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった
。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。
世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。
空港にいた日本人はパニック状態になっていた。
そこに、二機の飛行機が到着した。
トルコ航空の飛行機であった。
日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。
前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった
献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生のころ歴史教科書で学びました。トルコでは、
子どもたちさえエルトゥールル号のことを知っています。
今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようとトルコ航空機が飛んだのです」
いい話ですね。
いつもお世話になっております。
室舘塾二期生の佐々木大輔でございます。
とても感動致しました。
先人のああいった行動が、私たちを今でも助けてくださっているのだなと強く実感しました。
先人に感謝し、より日本の品格を高め、私たちがこうした先人に恥じないような言動を行って行かなければならないと強く改めて感じました。
ありがとうございました。
いいお話ですね・・・・
いろいろ考えさせられます。
コメントありがとうございます。
もっと多くの人に伝えて行きたい話ですね。