これは、しがく新聞02月号のコラムです。
◆リード:
毎年恒例、十六回目を数える靖國神社での集団参拝に六一九名で行ってきた。安倍首相の参拝や映画『永遠の0』の影響なのか、正月三が日で靖國神社崇敬奉賛会への入会人数は例年の一五〇%と聞いて驚いた。しかし、まだまだ靖國神社に対して「なんとなくイメージが悪い」という人が多くいるのも事実だ。今回はこの「なんとなく」について考えていこうと思う。
◆本文:
靖國神社。今から十七年前、職場の先輩からこの靖國神社の話を聞き、試しに本を二冊読んでみた。同じ年頃の若者が戦い、散っていったことに衝撃を受けた。これは、当時戦ってくれた若者に感謝を伝えに行かなければならないと感じ、七十名ほどで集団参拝に行った。最近は言われなくなったが、「明治神宮ではダメなのか」「商売に影響がでる」「右翼だと思われるぞ」など散々言われた。しかし、戦時下の若者たちの行動や発言を知れば知るほど励まされていた私は、周りに何を言われようとも集団参拝を続けてきた。
なぜ日本では靖國神社に対してこうした悪いイメージがあるのだろうか。テレビ、新聞などのマスコミでは次のような報道をしている。「A級戦犯が合祀されている」「アジア諸国(実際は中国・韓国)の感情を逆なでする」「国のために戦った人を称えると軍国主義に陥る」。マスコミの流す情報だけを見ていればこうした悪いイメージを持つのも頷ける。しかし、A級戦犯とは法律の世界ではご法度な事後法で決定したことで、戦勝国としては恥ずべきことであり、触れられたくない事実である。また一九五六年にサンフランシスコ講和条約に則って戦犯の名誉回復がなされ、A級戦犯はすでに日本には存在しないのである。それを声高に叫んでいる人々は自らの不勉強さを晒していることになる。そもそも靖國神社は、明治天皇が明治二年に、国家のために一命を捧げた方々を身分・勲功・男女の区別なく慰霊顕彰するために建てられた。吉田松陰や坂本龍馬も祀られている。
自国のために戦った戦没者に対して国を上げて顕彰することは、世界を見渡せば当たり前のことである。大東亜戦争(太平洋戦争)当時海軍大尉であった奥野恒夫氏は私にこう話をしてくださった。「世界では列強に負けた国々の人は皆奴隷として扱われた。日本も負ければ、自分達の家族が奴隷にされてしまう。国民全員がそういう気持ちだった」と。
自分の家族のために、自分の故郷のために「人としての誇りを捨てさせられ奴隷にされるぐらいなら、自らの命と引き換えにしてでも」と家族の幸せを願って戦ったのだ。靖國神社では戦争を称えているのではなく、公の為に命を投げ出した彼らの想いを大切にしているのだ。他国がとやかく言うことではなく、ましてや自国民が否定することはあってはならないことなのだ。中途半端な情報しか持っていないと、上手く世渡りすることばかりを気にしてしまい、曲げてはいけない信念や本当に大切な事を見失った人間になってしまう。だからこそリーダーになる人間は正しい情報を得て、信念を持って正しい行動をする必要がある。
教育者として私が考える靖國神社とは、公精神を感じるための最初の扉である。周りの人の幸せを考えて行動した御英霊と自分を比べ、日々の自らの生き方を振り返る場なのだ。死して尚、公精神を教えてくれる。自己中心的な自分に喝を入れ、自分の決意を固めに行く場でもある。慰霊顕彰だけで終わるのではなく、未来へ繋ぐ想いを引き継ぐために、私はこれからも靖國神社へ参拝に行く。