4月7日
昨日は福島県南相馬市へ物資を届けに行きました。
日本国際芸術文化協会 のボランティアとして、社員の伊藤君と一緒に6名で行って来ました。
なぜ南相馬市かと言うと、放射能の関係で一部の人たちから見捨てられた街と聞き、いてもたってもいられなくなったからです。
小川町体育館へ衣類や食糧を届けに行ったら、30歳前後の管理責任者に衝撃を受けました。
目を輝かせながらこう言いました。
「僕は家を失っただけですから。身一つで復興はやっていけます」
これだけ目が輝いている人は東京にもそうはいない。
逆に彼からエネルギーをもらった。
私たちが帰る時に、帽子をとり何度も何度も頭を下げる姿が印象的だった。
海岸近くを車で通ったが、ここで伊藤君の感想を。
「テレビやネットで見てはいましたが、想像を遥に超える光景でした。見渡す限りの更地は、空爆をされたとしてもこうはならないです。防波堤を乗り越えてきて散乱しているテトラポットが墓標のようでした。作文や手紙など、思い出の品が至る所に落ちており、胸が絞めつけられるような感覚でした。約1ヵ月経っているので遺体はありませんでしたが、震災直後は地獄絵図だったのではないかと思いました。1000年に1度という歴史的な出来事を目の当たりにし、忘れられない衝撃的な1日となりました。」
とのこと。
被災者ではない人が言う「頑張ろう日本!」とか「1日でも早い復興を」という言葉はとても軽い言葉だと思った。
現地の人は、一瞬で更地となった自分の街、中々物資が届かない現状、放射能に対する不安などを抱えながら生きている。
6.5μシーベルトの飯舘村を通り、0.5μシーベルトの南相馬市に行ってみて、初めて現地で生活している人の気持ちがわかった。
身をもってわかった。
南相馬市の状況は、結果的に見て政府の失敗だと思う。
福島第1原発から約25kmで、屋内退避なのか自主避難なのかはっきりしていない。
民主党の国民の生活が第一って一体なんなのかと疑問に思った。
写真をみて、改めて胸が締め付けられる思いがします。
明日であの日から1ヶ月となりますが、物資が戻り始め、交通手段が回復してきたことで、すっかり当日の事を意識的か、はたまた無意識にか、忘れようとしている自分がいた気がします。嫌なことを忘れるのは仕方のないことなのでしょうか。それもなんとも言えないのですが。
直接的被害は比較的少なかった茨城県南ですが、ホウレン草の問題等々風評被害が次々生まれ、やるせない気持ちになります。
こういう時に、自分がどう発言すべきかを、皮肉にも改めて考えさせられます。
しかし、まず私は私に出来ることを模索し、行動し続けるしかないのだと思います。
募金や、消費活動…なかなか思い付きませんが、思い付いたことから、行動してみます。
あれから明日で1ヶ月…心より犠牲になられた方々のご冥福を祈るばかりです。
室舘塾生の下枝です。
南相馬市(旧原町市)への支援物資をありがとうございました。
私は現在東京におりますが、高校時代は南相馬市で下宿し市内の高校に通っていました。
市内に私の知り合いも多数おり、代表のご支援をとてもうれしく思います。
南相馬市は二宮尊徳さんの養子である富田高慶さんの出身地でもあります。過去にも飢饉や明治維新を乗り越えて来た土地でもあります。
この歴史的大震災も乗り越え、次の世代につなげていけると私も強く信じています。
引き続き災害地にいる地元の方からの声を集めて伝えて行きたいと思います。
御援助、誠にありがとうございました。
下枝