これは、しがく新聞9月号のコラムです。
◆リード:
身内の話で恐縮だが、本コラムで父のことにたびたび触れてきた。一人の経営者として、長年自営を続ける父から得られるヒントは大きく、周囲からの評判も上々だった。ただし、一人の教育者としては母親の偉大さを感じている。父親以上に子どもへの影響が大きいと言われる母親の存在。上京するまでの十八年間、母からどのようなことを言われて育ったのかを今回は書いてみたい。
◆本文:
父の仕事は行商である。今もなお現役だ。母は父のサポートをしながら、室舘商店という小さな商店の店番をしている。今は不定休だが、子どもの頃は朝から晩まで年中無休で営業していた。畑仕事が年中あり、常に動きまわっている。それが母親の印象だ。「きちんと後片付けしなさい、テレビを見過ぎでしょ」といつも怒鳴られていた。他の家の子が羨ましくなることもあった。ただし、テストの点数が悪くても、おねしょをしても怒られた記憶は一切ない。一番言われたことは「好き嫌いをするな、何でも食べろ」だった。寒い地域の味付けは塩辛いイメージがあると思うが、我が家はとても薄味だった。母が健康を気遣った味付けにしてくれていたのだと思う。
室舘商店には当然カップラーメンも並んでいたが、母からは「食べては駄目だ」と言われて育った。初めて食べたのは小学校二年生の時のスキー大会。振る舞われた豚汁を食べて盛り上がっていた時、友人がカップラーメンを食べ始めた。羨ましくなって、母に「食べてもいい?」と尋ねた。もの凄く納得のいかない顔をしながらも許してくれた。それでも、子どもの頃はカップラーメンをほとんど食べることなく育った。母はしっかりと食育をしてくれていた。
今でも社員を連れて青森の我が家に遊びに行くと、母は、トマト、アスパラ、ナスなど、裏の畑で採ってきて振る舞ってくれる。皆が「甘い!旨い!」と食べるのを母は嬉しそうに見ていた。帰り際「採れたての野菜を食べるとパワーがでる。食事は大事だな」という話題になった。子どもの頃の食卓には新鮮な野菜や魚などが一杯あった。それが当たり前だった。母にしつけられ、健康な体をつくってもらったとしみじみ思う。
母が唯一バスケットボールの試合を見に来てくれたのが高校の県大会だった。小学校から八年間続けたバスケットボールは私の自慢だった。その日、スターティングメンバーに入り、母に上手いところを見せようと張り切った。しかし、意識し過ぎたせいか、いつものプレーができない。三回連続ミスをしたところでベンチに下げられた。私が部活をどれだけ頑張っていたのか母は知っていた。だからこそ、ボロボロの数分間しか見せられず、とても悲しかった。帰りのバスではお互い無言だった。母も掛ける言葉が無かったのだろう。せっかく見に来てもらった試合がこのような形で終わり本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。でも、言葉に出さずとも母は常に私の味方だった。冬の新聞配達の時には、わざわざ早く起きて薪ストーブに火を入れてくれていた。玄関を開けると、雪が三〇センチ積もっていたが、道路までの二〇メートルはきれいに雪かきされていた。
振り返ると、母から何か特別な教育を受けたわけではない。母親として当たり前であろうことを一八年間、日々淡々とやってくれた。「後片付けをしろ。遊び過ぎるな。家の手伝いをしろ」子どもの頃は本当に口うるさく感じたものだ。しかし、一つひとつの言葉は、子どもの成長を信じた愛情に溢れた一言だった。母に育てられた土台があるからこそ、今の私があると感じる。